昨年は諸般の事情により見に行くことができなかったので、今年こそはと思い計画を立てていた。
最初、例年通り13:30スタートだと思っていたので、その少しまえぐらいに到着すればいいや、ぐらいに思っていたのですが、偶々梼原町辺りに定住したいという方と津野町の三嶋神社の境内で話をしていて梼原町の検索をスマホでしていたら偶然2015年の津野山神楽についての緊急訂正情報が引っかかった。
これがもし引っかかっていなければ、・・・・・・と思うと・・・・・・
「情けは人の為ならず」ということかな。これも三嶋神社のお陰か・・・・・・。
それによれば、この30日の梼原町の三嶋神社の津野山神楽は全演目18番が舞われるとのこと。
いつもなら13:30開始なんだが、今回は全演目ということもあって10時スタートだということがアナウンスされていた。
そして行ってきました梼原町。
実に28年ぶり。随分と時間がかかったものだ。
30日の2:30に出発して片道およそ230kmの距離。
前回は太郎川公園までだったので、梼原の町に入るのは今回が初めてなのだが、随分と小綺麗な町だ。
観光で生きていこうと、道路なんかを整備したんだろうね。
神楽見物客のために、小学校の校庭が臨時駐車場になっていたが、一番乗り。
津野郷一帯の神社は4メートル四方の舞殿を有しており、神楽を舞うことを念頭に置いた造りになっている。
舞殿には幣が飾りつけられ、東西南北と中央が夫々色によって区別されて神々を現しており、神楽を舞う時の基準になっている。
色と神様と方角の対応については、祓え詞のなかで説明するのであるが、よく聞き取れなかった。
因みに中央が黄色、桃色は西(だったかな)、赤、緑、紫である。
神の名前も聞き覚えのあるものばかりだったが、覚えているのは罔象女神で確か方角は西だったような・・・・・・・
神楽は、10時予定通り始まったが、本来は8時間ほどかかるのであるが、今回は短縮して行うので終了は17時を予定しているとのこと。
実際は、お昼時の休憩も無くぶっ通しで演じられ、最後の演目「四天」が終了したのが、16:45頃で途中浦安の舞があったので、実質6時間半ほどだったのかと思う。
どこを短縮したのか初めて見る私にはよく分からないが、「山探し」なんかは本来はもっと長いのじゃないかなあ。
因みに、演目は以下の順で行われた。
1 宮入り(みやいり)
2 幣舞(へいまい)
3 手草(たくさ)
4 天の岩戸(あまのいわと)
5 花米(はなよね)
6 二天(にてん)
7 山探し(やまさがし)
8 悪魔祓(あくまばらい)
9 大蛮(だいばん)
10 弓舞い(ゆみまい)
11 浦安の舞(これは神楽ではない)
12 鬼神退治(きじんたいじ)
13 猿田彦(さるだひこ)
14 長刀(なぎなた)
15 折敷(おりしき)
16 妙見(みょうけん)
17 豊饒舞(ほうじょうまい)
18 鯛つり(たいつり)
19 四天(してん)
演目の名称は、梼原町教育委員会のパンフレットに依っているが、津野町のパンフレットと比較してみると、演目数が津野町では17演目となっており、梼原町より1演目少ないが、宮入りと幣舞の間に「みそぎ」という演目がある。
従って2演目少ないことになるが、それは「長刀」と「豊饒舞」である。
また、その他の相違点として、「鯛つり」が「恵比須舞(えびすまい)」となっている。
津野山神楽の保存会は、ひとつの団体だと思っていたが、梼原町と津野町で夫々保存会があるようである。
梼原町の「山探し」を見たときに、「あれっ、津野町で見た山探しのお面とは違うなあ」と感じたのは、これなのね。
「宮入り」は、これから神楽を舞い始める、というべきものである。
「幣舞」は津野山神楽の基本の舞であり、幣を持って舞うことから幣舞と呼ばれている。
「手草」は、天の岩屋の前で天照大神をひっぱり出した神々の功績を讃えた舞である。
「花米」は、三宝に白米を奉じて五方の神々に感謝の祈りをささげる舞で、神社で舞うときは必ずその神社の神官が舞うしきたりだそうです。
三宝に載った白米を扇子で、五方に播きます。
「二天」は、草薙の剣の由来を唱える舞です。
「山探し」は40分ほどあったと思うから、舞っている人は相当な体力を要求されると思う。
この人は「大蛮」も舞っていたし、恐らく「鬼神退治」もそうだと思う。
仮面演目担当なのかも。
ただ、残念だったのは囃子方の小太鼓がときどき失速していた。
囃子方は大太鼓1個、小太鼓2個、鐘1個、笛1個なのであるが、時々(かなり、かな)2つの小太鼓が綺麗に揃わないのよね。
天照大神より先にこの国に居た人々を悪魔として、これを退治して服従させていくというお話。
まあ、国譲りなんて生易しいものでなかったことは確かだなあ。
しかし正史として残ってしまった程に凄まじかったんだろう。
普通は、都合の悪いことは書き残したくないでしょうに。
多分書かないと、それこそ大きな矛盾が生じるのか、或いはこのことを残そうとする力が働いたのか・・・・・・・・。
大蛮が榊の枝を両手に持って四方の神に威力を示すのであるが、四方の神には武力では屈服しないのだけれども、中の神には理で持って諭され七宝を返上する、というお話。
4つの方向が基本としてあるので、所作を東西南北それぞれの方向で繰り返すのであるが、どの方向をやっているのか分からなくなることがあるらしい。
「大蛮」を舞っている時に、4方向それぞれの神との掛け合いがあるのであるが、一つ飛ばしてしまった。
そしたら囃子方など周囲から、違うぞ・・・の声が。
ある神の掛け合いでは、「セリフが棒読みじゃの」とか、「練習が足らんの」とか・・・・兎に角アドリブ連発で観客は大爆笑。
夫々の神との闘いの合間に、1歳未満の乳児の息災を願って、大蛮に抱いてもらって五方の神に祈ってもらう。
最後に、抱かれた乳児はその足を舞殿の床につけて親に返されるのであるが、この床に足をつけるという所作は神の子から人の子になる、という意味なんじゃないだろうか。
各地の祭りにおいても、子供は神だから子供の足を地面に着けない、という決まりが見受けられるから、その一種だと思う。
こうして、足を地につけた子供は、氏子の一員として地域を構成していくのであろう。
この日も、抱かれる乳児が10数人いたのであるが、大蛮はこうぼやいていた。
「子供が多いのはいいが、疲れるのう・・・・」と。
弓を潜るなどのアクロバティックな動きのある舞で、弓の由来を語ります。
弓を片手で持って潜るので、えっ・・・・てな感じで、一瞬どうやって潜ったか分からなかった。
浦安の舞は、神楽の演目ではないが、秋の例大祭の神事ということで行われた。
ハプニングもいくつかあったが、その中でも一番のハプニングは浦安の舞を舞っている最中に伴奏曲の再生が突如止ってしまったこと。
その時4人の舞手の少女たちは、そのままの動作でストップ。(右側の写真がその時のもの。この格好で止まってしまった)
恐らくそのまま、続きから再生が開始されると思ってのモショーションストップだったのだろうが、舞殿は笑いに包まれた。
結局リスタートできなくて、最初からやり直し、ということになった。
左の写真でも分かるように、髪は後ろで束ねて絵元結(熨斗紙・水引・丈長を組み合わせた装飾)を結んでいるので、正式のルール通りの装束になっていた。
中々に興味深い演目であった。
そもそもは、国譲り神話を題材にしているが、兎に角そこまでやるかというぐらい激しい舞である。
最早舞と言っていいかどうかというほど、建御雷神が舞殿一杯に建御名方神に引っ張り回されて転げまわるのである。
見ていてかわいそうに思える気持ちが湧いてくるぐらいの激しさだ。
上の写真を見て分かる通り、左側の写真では舞台上にごみは落ちていませんが、右側の首の打ち取られた写真では舞台上に榊の葉っぱが散乱しているのが見てとれます。
最初は互角に戦っていたのが、建御名方神が建御雷神の背中を背後から矢で射す所から形勢は逆転する。
これは、建御雷神が「だまし討ちにあった」ということを、それとなく後世に伝えようとしているのではないか、なんてことを見ていながら考えてしまった。
因みに、津野町の古式神楽では建御雷神の面は黒色とかいてあるので、この梼原町とは異なっていますね。
おばなれやお練りの際の先導役として、必ず先頭にいますなあ。
鼻が高いので「鼻高舞」とも言います。
「長刀」「折敷」は、共に余興舞で、「折敷」は1枚または2枚の平盆を手のひらに載せて、前転や後転を行うアクロバティックな演目であるが、観客はもう拍手大喝采。
そして時々、わざとお盆を落としてみたりの失敗もする。
正に一体感。
「妙見」は、二人で真剣を持って星の神を讃えて舞うのであるが、真剣かどうかはよく分からなかった。(パンフレットには真剣、とあります。)
「豊饒舞」は、俗にいう「稲荷と大黒の舞」で、稲荷は五穀を守り、大黒は商売繁盛と五穀豊穣をの徳を授ける神で、夫々、お互いに神業を尋ねるユーモラスな舞だった。
「鯛つり」は、もっと盛り上がる。
竿を観客に投げいると、それに「お花」をつけて返すのだが、お金やら本物の鯛やらお菓子やを観客が紐に付けていく。
付け終わると本物の釣りのように、暫く引っ張り合いをするのだ。
五方の神々に神楽が無事終了したことを報告し、これからも氏子をお守りください、との祈り込めた最後の舞である。
この舞が舞われないと津野山神楽は終わりにならない。
この後、宮司さんが集まっている観客を祓い終了する。
見た感想を一言でいえば、素晴らしい・感動した・感激した・・・・・・・とにかく面白かった。
やっぱり、その土地に行って見るのは違うよなあ。
神楽をみて思ったことは、神楽は神を楽しませるために行うというが、それだけではない。
人を楽しませるためにもあるのだということを。
笑いあり、拍手有り、舞い人と周囲の観客が一体になったその雰囲気は、残念ながらこの写真ではお伝え出来ない。
その場のざわめきとかの空気感はその場に立ち会って見なければ分からない。
今年は、まだ2回行われるので機会があれば是非行かれることをお勧めす。もう私が大絶賛なのだから。
しかも11月の連休におこなわれるので、ね。
カメラマンは、開始時は6人ほどしかいなかったので、こんなものかと思っていたが、「山探し」が演じられるお昼ごろになるとかなりの数に増えていた。
みんなよく知っているね。
本来、祭りとはこういうものであるのだろう。
津野山神楽について
梼原町では津野山神楽、津野町では津野山古式神楽と言っていますが、何故そう言っているのかは、保存会の設立に関係があるようです。
元々は、津野郷一帯で舞われていた神楽なんですが、行政区上は梼原町と東津野村に分かれてしまいました。
保存会の設立は梼原町が早く、それから暫くして東津野村も保存会を立ち上げますがこの時、梼原町の保存会と区別するために東津野村では津野山古式神楽の名称を使ったものだと思います。あくまでも私の想像です。
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